お蚕さまからのたより│VOL.18 楊貴妃の美貌の秘訣は、冬虫夏草!?
秦の始皇帝が冬虫夏草を求めたというお話は以前にもご紹介しましたが、もう一人、中国の歴史上の人物で、冬虫夏草を求めたと言われるのが、世界三大美女の一人楊貴妃です。美しさと若さを保つために、冬虫夏草を愛用していたとも言われています。容姿の美しさはよく語られますが、どんな人物なのかご存知ですか? 波乱万丈の楊貴妃の半生と、その美しさの秘訣について注目してみました!
目次
1.桜の名前になるほどの美しさ
2.玄宗皇帝の愛を独り占め
3. 二人がくつろいだ温泉は、観光名所に
1.桜の名前になるほどの美しさ
楊貴妃は、中国の唐の時代の719(開元7)年、蒲州(現在の中国山西省永済市)で生まれました。日本で言うと奈良時代。遣唐使を派遣して唐文化を吸収しようとしていた頃です。
楊貴妃の幼名は玉環(ぎょくかん)。両親は玉環が成人する前に亡くなり、地方官の叔父に引き取られます。そして17歳の時、唐の6代目の皇帝・玄宗の息子である寿王の妃に。なぜ妃になれたのかについては史料が残っておらず、はっきりしませんが、当時の玉環の姿について「黒髪雲のごとく、皮膚雪のごとく白く、挙止は漢の武帝李夫人の風度あり」と伝えられています。寿王はたいへん美しい娘がいるという噂を聞きつけたのかもしれませんね。
地方官の娘から寿王の妃へと大出世を遂げた玉環。寿王の父・玄宗に謁見したところ、玉環のあまりの美しさに、玄宗が一目惚れしてしまいます。しかし、さすがの玄宗も息子の妃をうばってすぐに自分の妃にするのは憚られたのか、玉環を一時的に出家させて、玄宗が住む宮廷の近くにあった太真宮に移らせました。5年後、玉環は還俗して「貴妃」(皇后に次ぐ夫人の地位)の称号を与えられ、玄宗の妃として迎え入れられます。この時楊貴妃22歳、玄宗は56歳。年齢差は34歳もありました。
玄宗皇帝が一目惚れした楊貴妃の美しさを、ちょっと想像することができるのが「楊貴妃桜」。江戸時代から日本で栽培されている桜で、現在も春、ソメイヨシノより少し後に開花します。球状に花がまとまって咲く豊かで優雅な姿が、楊貴妃に例えられています。
2.玄宗皇帝の愛を独り占め
「三千の寵愛一身にあり」
これは、唐の詩人・白居易が残した長編叙事詩「長恨歌」の一文です。この詩があらわしているように、後宮には大勢の女性がいましたが、楊貴妃は玄宗からの愛を独り占め。出かける時はいつも同じ車に乗り、宴の場では敷物を共にしていつも一緒だった二人。このような詩が残るのも頷けるほどです。
玄宗は在位の前半は「開元の治」とよばれる安定と繁栄の時代を築き上げました。しかし楊貴妃を溺愛してしまってからは政治がおろそかに。それがもとで反乱がおこって、楊貴妃も亡くなってしまいます。悲しみに暮れる玄宗皇帝。楊貴妃を寵愛した玄宗の物語は、日本では、能の演目になるほど親しまれています。
3.二人がくつろいだ温泉は、観光名所に
楊貴妃と玄宗は、華清宮(かせいきゅう)という離宮にあった温泉によく通っていました。温泉でのんびり過ごした二人。この温泉やリラックスした時間が、楊貴妃が美しい肌を維持できる理由の一つだったのかもしれませんね。この温泉は「華清池」の名で現在でも残っていて、現在も世界中から多くの人々が訪れる観光名所になっています。
また、楊貴妃が好きだった食べ物と言えば、有名なのはライチが有名です。ビタミンCや葉酸を含み、「美の果実」とも言われています。そして、古くから薬膳の材料として使われていた冬虫夏草も、楊貴妃が美貌を保つために求めたと言われています。華やかな宮廷で紡がれた、美しい妃と皇帝愛の物語。そのワンシーンに冬虫夏草があったかも……と思うと、歴史ロマンが広がりますね。
参考図書
村山吉廣『楊貴妃 大唐帝国の栄華と滅亡』 講談社、2019年
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