お蚕さまのたより|VOL.6 古(いにしえ)より、人とともに―養蚕
昔から人々は蚕の力をかりて、養蚕を行い、絹を作ってきました。
その姿は万葉集に詠まれるほど、身近で、美しいものだったようです。
天虫花草も、古の人たちと同じように、蚕のちからを借りて、私たちの暮らしを支えてくれるスーパーフードです。
目次
1.万葉の歌にも詠まれた繭の姿
2.海外に広まり、外国の技術も取り入れて
3.家蚕(かさん)の一生
1.万葉の歌にも詠まれた繭の姿
たらちねの母が養(か)ふ蚕(こ)の繭隠(まよごも)り
隠(こも)れる妹(いも)を見むよしもがも
母が飼う蚕が繭に隠れるように、家に閉じこもるあの娘を見る方法はないだろうか……。
万葉集、読み人知らずの詠歌です。
この歌でも母が蚕を世話しているように、いにしえより養蚕は女性の仕事でした。
6世紀の大和王朝では、租庸調の中で調絹(ちょうきぬ)という現物の税を徴収しました。
江戸時代には絹織物は武士階級のものとなり、多くの生糸を中国から輸入するようになります。
しかし、銀と銅が流出しすぎたことから、幕府は国内の養蚕を奨励。江戸後期には養蚕の研究が進み、多くの技術書が出版されています。
2.海外に広まり、外国の技術も取り入れて
ヨーロッパを襲った蚕の微粒子病で、養蚕が大打撃を受けると、この危機をきっかけにヨーロッパで日本語研究が進みました。
長崎出島のオランダ商館医シーボルトが持ち帰った『養蚕秘録』( 1803 年上垣守国著)は、日本産蚕を飼育するためのバイブルとして、フランス語、イタリア語に翻訳されて広く読まれています。
開国に転じてからは、生糸は主要な輸出品に。
日本は、近代的な製糸技術を取り入れるため、フランス人技師を招いて富岡製糸場をつくります。
工場で働いた工女500 人の多くは士族の娘で、女性の社会進出の先駆けとなりました。
その時代を象徴したのが皇室の養蚕です。
明治天皇の皇妃が、皇居の中の養蚕所で蚕を育ててました。その伝統は現代の雅子皇后にも受け継がれています。
3.家蚕(かさん)の一生
蚕は完全に家畜化されています。
蛾になっても翅(はね)が小さくて飛ぶこともできず、交尾にも人の手が必要です。
蚕蛾(かいこが)の成虫ひと組からは、200 個の蚕種(卵)が生まれます。
卵がかえった稚蚕(ちさん)を飼育台に移し、3、4日経ったものを1齢幼虫といいます。
さらに成長すると脱皮しますがその直前は、蚕は体を動かさず、まるで眠っているように見えます。
この状態が「眠」です。
眠のあと脱皮をして2齢となって……と、これを繰り返して4 齢になると、桑の葉を枝ごと与えます。
5 齢では蚕は6 日から8 日間、桑を食べ続けます。
この5齢の時に一生のうちの約88%の桑を食べるといわれています。
蚕は桑の栄養素を取り込み、フィブロインとセリシンという、絹のもとになるタンパク質を生成します。
このとき蚕の体はひときわ透き通っていて、体重は1 齢の時のおよそ1 万倍になります。
ここまで約25 日。
ようやく蚕を格子状の蔟(まぶし)へ。盛んに頭を振り回す蚕は、糸を吐き、2、3 日で繭をつくり、蛹となります。
そして10 日ほどで羽化して蚕蛾になるのです。
人の手なしでは生きてゆけない蚕。
春から秋にかけて行われる養蚕は、女性たちのつとめでした。
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明日はもっと、豊かな自分に。
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